経済史

第1部

なぜ経済だけが成長という言葉で語られるのか。社会や法には成長という言葉はそぐわない。

経済は量的な拡大と共に現れた。なぜ量的な拡大という認識論的な枠組みで考えられたのか。それは、人間の際限のない欲望が原因である。と仮定しよう。

 

際限のない欲望は食料など様々なところで見られるが、とりわけ貨幣への欲望は尽きない。過剰充足の苦痛がないのだ。

 

では人はどのように欲望を充足するか。個人レベルの領有を超え、社会的な動物である人間はその欲望を社会的にじつげんしようとする。その場合、方や政治などが不可欠な要素として関わってくる。そして、効率的な欲望充足は分業によって達成される。

 

経済は欲望充足の全過程であると定義しよう。モノを媒介にした人間関係である。(モノの定義は問題として残る。何がモノなのか?)

 

効率的な分業は単一の意志によって統御される。ではその意志は誰が担うのか。こうたいせいでも問題はないが、jだれかに固定しておく。すなわち、指揮命令系統を設定する方が方向性が定まり、効率的である。

 

では、この指揮命令系統は何によって担保されるか。それは伝統的には権力と権威である。

権力は上から下への祟る力への畏怖。権威は下から上への信頼である。

 

効率性を求めた分業は従属関係を生み出すため、自由だけではなく、不自由も生み出す。

そこで、生産力の無限の増加で不自由以上に自由を生み出すことが素朴にできると考えられていたのが、近代。その弊害、不自由が前面に出てきたのが現代であるとかんがえる。

 

第2部 前近代 欲望を統御する社会

前近代は、人の際限のない欲望を満たし切れる生産力がなかった。

そのため、人の生存条件であった共同体の維持のため、個人の欲望は制限されていた。

その欲望の制限の形は身分制という言葉に集約できる。身分制により、人の際限のない欲望を満たし、共同性と共同性の効率性とを実現し、保持することができた。

身分制を可能にした規範は伝統である。これは現代の伝統主義とは反対の保守主義である。

今日と明日は異なるものではなく、同一のものでなければ、共同体の姿は変容してしまう。それゆえ、暦などで、一年を通して何をすればいいのかは決定されていた。それが伝統である。一方、伝統主義は過去の伝統に価値を置き、その非連続的な再現を望む思想であり、保守主義の伝統とは正反対のものである。

 

富の規範は大きく2つ。第一に富を増加させないこと。富の増加は投資につながり、今日とは違う明日、今年と違う来年を生み出し、共同体の維持を揺るがす。

第二に、富が蓄積したならば、それを非生産的な芸術や思想に当てること。また、ポトラッチなど、富を破壊することである。

 

共同体とそれに合致する生産様式が至限するというのがマルクスの社会構成対論である。

詳細は割愛。農耕→多産と土地分割→土地分割の困難→多産の抑制、家督相続→余剰労働力の登場。彼らが共同体から自由な個人として欲望を解放され、保護からはみ出ると共に、市場での取引を通じていきることになった。

 

人口増加は経済成長につながる。ただし、職と食が増加した人口を養えるという条件付きで。

すなわち職と食の供給能力を超える人口の増加は社会の滅亡をもたらすことになる。従って、前近代では人口抑制を目的とする制度が上手くいった。家族の中での人減らしや初婚年齢を遅らせること、相続制度の制限などに見られる。

 

前近代社会を体系的にまとめるなら、共同体、規範、身分制によって社会の存続、共同体の維持、個人の欲望の統御と保護を可能にした。蓄積してしまった富については非生産的な使用がなされ、高い身分の者の権威が強固となっていった。

 

以上が、前近代と近代の異なる側面である。以下、共通する側面について見ていこう。それは商品経済や貨幣経済という存在であり、市場と同じく、古くから存在する。ただし、そのことは現代の市場経済とは同義ではないことには注意。物や貨幣の交換で欲望が満たされた部分があったということだ。

 

前近代の市場は三つに類型化される。局所的公開市場、すなわち、市場周辺で生活する人が集まり、取引を行う形態であり、継続的なコミュニティ内での取引となるため、そこには詐欺的な取引や利潤の可能性は少なく、お互い様の一般的互酬性に基づく取引がなされる。

 

一方、広域的遠隔市場は一回限りの取引であり、詐欺的な取引、利潤の可能性のあるギャンブル的な市である。

 

第三が私的取引であり、効率的な生産を可能にした者が密かに局所的公開市場で行うものである。私的取引は効率的な生産による安価な商品提供が既存の生産者を駆逐する。故に、この私的取引こそが、資本主義につながる道となったという説を本書は取る。

 

第三部 近世

近世とは前近代から近代へと移行するための長い過程である。

前近代から近世への大きな変化は①人間関係を構成する原理が身分制と共同体から自由な個人の契約による共同性のあり方が決定される市民社会への変化である。

②個人の財やサービスへの欲望充足から、いったんは多くの貨幣を獲得する欲望充足へと変化が生じることで、分業編成原理が貨幣を媒介にするようになった前市場社会から市場社会への変化。

 

③生産様式の変化。封建制から資本制への変化である。剰余を支配者の権威を高める消費に使用する必要が身分制の緩みにより不要となり、剰余を生産的に使用し、生産的な成長を実現する資本主義へと転換した。

都市が商工業を独占し、農村と都市に明確な分業体制を強いた封建制にとって、農村商工業は封建制の秩序の外に発生したものである。封建制では封建領主が直接的生産者である農民からの剰余収奪が可能であったが、それが完遂せず、農民に富が蓄積し始めた。

 

絶対王政とは封建制の危機に対する権力集中である。その矛先は大きく二つ。内側では産業規制であり、農村商工業をいかに規制するか、そして統一的な行政・徴税機能を強化するという方向性。(しかし、御しきれず、しばしば農村商工業と奇妙な癒着を起こし、初期の独占型資本を生み出す)外側では貿易の進展により、対外の絶対王政国家への対応として、否が応でも絶対王政が求められるようになった。

 

資本主義社会では富の収奪は徴税と投機市場の崩壊を別にしてありません。

 

資本の一部=賃金と労働力が市場によって等価交換され、そこで生み出された富が再び市場で等価交換されながらも、最初と最後の貨幣額との間に利潤が生じるというのが資本の論理であり、資本の蓄積と労働力、そしてそれが好感される市場経済が存在して初めて資本主義が確立するのである。富の蓄積と賃労働が存在しなかった前近代では資本主義は成立しえないのである。

 

フランスの人口学者トッドの私的。

晩婚や非婚は人口減少の要因?

 

全体主義を経験した国では出生率が低い、一方個人の自由が尊重されてきた社会では産むか産まないかの判断が個人にゆだねられ、社会的に受胎調節がなされる。個人の自由に抑圧的な家族制度の強かった社会ではそういった判断が制約を受け、人々は出産に帰結する行為をためらう。

例えば日本では18歳までは清く正しく、それ以降はできるだけ早く子供を産むことが推奨される。

 

人口の増加だけでは水平的な富の増加のみで、大きな経済成長は望めない。大きな富の増加には一人当たりが生産、消費する富の総量が増えることが必要である(当たり前だが)

 

第四部 近代

近世から近代への移行は一般的には産業革命といわれている。

産業革命は断絶的なものではなく、連続的なものであった。

 

産業革命以前は食糧生産、および、熱源という点でも所与の自然の許す範囲内でしか可能ではなかった。したがって、自然的制約を超えないように余剰の使用を身分制や共同体などでしばった。産業革命は自然的制約を突破した。結果、経済は社会や掟や規範から解放されることになった。ここに社会や制度から自立した市場経済が離床(ポランニー)する。

 

信用売買の本質は商品引き渡し自店で現金紙幣を使用する必要がない。信用手形は誰がか受け取ってくれる限り、現金貨幣と同じ役割を果たす。しかし、誰も受け取ってくれない終点に達すると、ババ抜きのババと同じものに変容する。これまでのところ、短気的な変動や停滞を除くのであれば、資本主義は長期的に経済成長したが、その背後では手形が使用されており、ババを引くひとがいてくれた。

 

救貧政策は資本主義経済の存続に必要不可欠である。なぜなら労働者の完成には20年近くの時間がかかる。一方で、経済の停滞はそれより短い周期で発生する。それゆえに、失業を放置して、労働者が失われるならば、労働者は減少してしまう。

救貧政策により、失業者を保護することは食品の冷凍保存と同じである。次に労働力が不足した時にまた解凍するのだ。

 

食糧輸入とは自国内の自然の有限性の諸問題を席送りし、他国の自然を利用する行為である。リカードはこのような先送りの行く先を定常状態とした。定常状態とは各経済主体にとって新たな努力の余地がなくなり、経済が物質的に成長せず、人口増加も技術革新も資本の蓄積も発生しない状態で、経済発展が全地球レベルに拡散すればこの定常状態に達すると考えた。

 

現在も自然の有限性は乗り越えられていない。しかしながら、世界全体の発展のなかで自然と経済の間に発生する問題は忘れ去られている。自然は無限だと。

 

家父長制は近代に入り危機を迎えたが、再編された。その大部分あが国家の立法によってなされたものである。ゆえに、資本制と家父長制と国家の三元論で資本主義は把握するべき。

 

19世紀の後半は欧米諸国の四方八方に暴力を伴いながら拡大し、世界が一つの世界にまとめ上げられる動きを示した時期である。

 

 

第五部 現代 欲望の人為的維持

19世紀は古典的自由主義の時代。一言でいえば、強くたくましい個人が前提とされていたが、それは嘘であった。20世紀は弱く劣った個人を前提とした介入的自由主義の時代に突入する。

 

人は自らの欲望など知らない。幸福は誘導されるようになった。しかしその幸福すら自立不能であることがわかった。それへの対処は権利としての社会保障として現れた。

 

19世紀は多角的決済機構と国際金本位制により安定的に成長したが、その崩壊もまたその安定から生まれた、国際分業が深化することが、その揺らぎを生む。

 

国際分業が密接になると、リカードに従えば、どの国も比較優位産業に特化することを意味する。それは、国内に比較劣位業種が生じ、それが捨てられることを意味する。つまり、すべての業種、もとい全ての地域が反映することは論理的にありえず、なにかが発展することは、なにかが苦難に陥ることになる。

 

なぜ周りはこんなに繁栄しているのに、自分の業種と地域は辛酸をなめることになるのだろうかという感情は、有権者が増え、民主化言論の自由が増進している状況では、彼らを納得させる解釈が必要になった。

 

この苦難への解釈は大きく2つ。①社会主義。民衆が経験している苦難の根本には資本主義の矛盾が存在しているのであり、資本主義社会における労働力の窮乏化を解決することなくして、苦難は解決されないとするものであった。20世紀初頭の社会主義の台頭はこうした文脈の中で影響力を拡大した。社会主義隆盛を放置することは革命による資本主義の妥当か労働者層への所得の垂直的分配を行うしかないというのが当時の支配階級の懸念であった。

 

ナショナリズム。自国の当然享受すべき利益は、外敵と、それにつながる裏切り者のせいだという解釈。

 

社会主義への対応には勢力拡大の防止と社会主義実現のための財源が必要であるが、ナショナリズムに金はかからない。大概の苦難の原因は外敵と内通者に求めることができるからだ。苦難への対処を必要にしないという点では自由貿易賛美論と同様である。

 

第一次世界大戦は人類史上最も長い戦闘の歴史=5年であり、その戦争は総力戦体制を必要とした。戦場の兵士が死んだら終わりではなく、移動手段の発展などにより、国内から借り出せば兵士はいくらでも存在する状態に変わったのだ。長期的な戦争は交易、経済のシステムを根底から変更した。各国で総力戦体制のための統制が敷かれた。

 

第一次世界大戦において、国家の戦費調達は戦時公債の発行であった。各国は債務を負ったが、それが無事に解消できれば問題はなかった。1917年、ロシアで社会主義革命が発生すると、ロシアが英米仏から借りた公債が戦費が、帝国主義戦争から離脱したロシアは帝国主義戦争のための公債を返還する必要はないという論理により焦げ付いた。英仏はアメリカへの債務返済に窮するようになる。

 

英仏は債務困難を脱するために、ドイツとその同盟国による攻撃により余儀なくされた戦争としてヴェルサイユ条約ロシア革命と戦債問題が強い影を落としたドイツの賠償責任問題を押し付けた。

 

そしてこの体制こそがそこからの脱却を唱えたナチスドイツ国民の三分の一の指示を集め、ひいては第二次世界大戦へと続く遠因となった。

 

戦後の一時的な好況ののち、大恐慌が発生。それに対して米国はニューディール政策、フランスは人民戦線政府の消費需要維持などの消費主導型政策をとった。

一方、ドイツは公共事業や軍備輸出に頼る投資主導型を目指した。

 

二つの経済政策は国内市場がどれだけ豊かかという現状認識と、人々をどれだけ豊かにするかという価値観によって規定される。

 

投資主導型は消費需要に期待しない為、公共事業と軍備、輸出に依存する為、国民の生活は豊かになることはない。

 

このような世界で植民地を持つフランスやイギリス、中南米アメリカの裏庭とした米国などの持てる国々は経済のブロック化で恐慌の打撃を抑える一方、海外領土を奪われたドイツや豊かな国内市場を持たないイタリアや日本は乱暴な形で国外市場獲得へと乗り出した。

 

現代は資本主義の次に変わる規範が見つからず、介入的自由主義を恐る恐る使っている状態だ。次世代を構想する世界はいまだ存在しないが、強い規範を求めるのではなく、小さく弱い規範の試行錯誤こそが次代の規範を生み出すのである。

無敵の就職心理戦略

ないものを求めず、持っているものを知る

 

何が何でも好感度を上げろ

人は判断基準を多く持てない。第一印象と強い長所をアピールしろ。

面接の成否を決めるのは好感度

人間の評価は際立った一つの特徴で決まる→人間には認知能力の限界があり、全体像から判断は不可能→ハロー効果で短所は隠せる

 

知性を演出しろ

中身に意味はない。形式が重要である

視線は相手の目に

テンポよく大きな声でしゃべる

左右対称に見える整った見た目と高身長

面接はQ&Aではない。答え+何を聞きたいかを+アルファ

3段階の心理テクニック①ポジティブな話の初頭効果 ②両面定時(悪い部分を提示して、誠実さを)③ピークエンドセオリー最後の売りの言葉が全体の印象を決定するため、弱みを上回る長所で締めろ

面接官に基準はない。こちらがこんな人材が欲しいといわせて、自分がそうだとアピールする

 

自信はフィジカルにつけろ

運動をする(30分の徒歩でも)

迷走

セロトニンを出すバナナや豆腐などを

一か月罰ゲームで自分のいやなことをしろ。いやなことをしても大した問題は起きないことで緊張は全くしなくなる

嘘はばれない。どもる時間が嘘がバレル原因(えーとという時間が相手に不信感を与える)

 

実践

自分の理想の生活をイメージ→理想の生活をするための働き方やイメージを持つ→そのためにはどのようなスキルをもつべきか→それを身に着ける会社を選ぶ

 

だからどうしたを繰り返す→面接で不意の質問にもどもることなく回答可能(こじつけでもよい)

 

3つ挙げて説明して、3つほめる→3つ自分を表すことを覚えておけばいい3つの言葉からこれだけ話せるという自信を持つ

 

72時間以内に行動する(人の記憶の限界)

『投資で一番大切な20の教え』 

『投資で一番大切な20の教え 賢い投資家になるための隠れた常識』Howard Marks

 投資で一番大切な20の教え―賢い投資家になるための隠れた常識

『投資を成功させるには、数多くの独立した要素に同時に思慮深く注意を向ける必要がある。一つひとつの「一番大切なこと」が、強固な壁となるべきものを構成するレンガなのであり、どれが欠けても困るのだ。』

 

米国の逆張りファンド、オークツリー・キャピタル・マネジメントの会長ハワード・マークス氏の著。

彼が率いるオークツリー・キャピタル・マネジメントは「リーマン・ショックで最も稼いだ運用会社」として有名だ。

 

本著は、彼が数十年のキャリアで培った投資哲学を20の教えとして伝えてくれる。

 

マクロ経済の動きに注視し、高度な財務分析を駆使する方法を本書は教えてくれない。

本著が伝えてくれるのは不完全で移ろいやすい市場にいかにして対峙すればよいか、その心構えだ。

 

マーケット参加者は時にして信じられないほど強欲になる。

強欲はバブルを生み、そしてバブルはいつかは崩壊する。

 

マーケットで成功するものは強欲になりすぎず、かといって悲観的になり過ぎないことが求められる。

だがその道は言うは易く行うは難し。20の教えはその道がどれだけ厳しいのかを伝えてくれる。

 

 

1.二次的思考をめぐらす

2.市場の効率性(とその限界)を理解する

3.バリュー投資を行う

4.価格と価値の関係性に目を向ける

5.リスクを理解する

6.リスクを認識する

7.リスクをコントロールする

8.サイクルに注意を向ける

9.振り子を意識する

10.心理的要因の悪影響をかわす

11.逆張りをする

12.掘り出し物を見つける

13.我慢強くチャンスを待つ

14.無知を知る

15.今どこにいるのかを感じ取る

16.運の影響力を認識する

17.ディフェンシブに投資する

18.落とし穴を避ける

19.付加価値を生み出す

20.すべての極意をまとめて実践する

 

1.二次的思考をめぐらす

ハワードは将来に関する思考を二つに分ける。

一つ目が、一次的思考である。一次的思考は単純で底が浅く誰でもできることである。

「この企業の見通しはいいから株価は上がる」「経済状況は良好だから投資すべき」

 

二つ目がホークスが推奨する二次的思考だ。二次的思考は奥が深く入り組んでおり、脳にかかる負荷は一次的思考に比して著しく大きくなる。

「今後どのような範囲の出来事がおきるか」「その中で実際に起きることはどのくらいの確率で生じるのか」「コンセンサスの予想はどうか」「自分の予想はコンセンサスとどう違うか」「その資産の価格は、コンセンサスと自分が考える先行き見通しに見合っているか」「価格に織り込まれているコンセンサス心理は弱気すぎたり強気すぎたりしないか」「コンセンサスあるいは自分の予想が的中した場合、その資産価格はどうなるのか」

 

二次的思考の実践はシンプルさの対局にある。成功はシンプルな一次的思考でもたらされることはない。

 

2.市場の効率性(とその限界)を理解する

みな一度は耳にしたことがあると思う。「マーケットは効率的であり、マーケット参加者はみな冷静で客観的である。」

 

ハワードはこの効率的市場仮設に異議を唱える。

効率的市場仮設は次の事柄を前提としている。

 

・研究熱心で冷静な投資家が数多く存在する

・それらの投資家は知的で熱心で客観的な目を持ち、十分なスキルがある

・みな利用可能な情報をほぼ同時に入手することができる

・みな自由にあらゆる資産を買ったり、売ったり、空売りできる

 

 さて、これを読んでどう感じただろう。率直に言って「そんなわけない」というのが直感ではなかろうか。

 

とりわけホークスが問題視する前提条件は2つ

一つ目が投資家は客観的であるという記述である。

人は冷徹な機械ではない。特にマーケットの前では強欲で、恐れやすく、嫉妬し、思慮深さを失い、感情に突き動かされ重大な過ちを犯しやすい。

 

二つ目がみな自由にあらゆる資産を買ったり、売ったりできるという前提条件だ。

ほとんどの専門家は特定の市場分野にしかかかわっていない。債券マネージャーや株式マネージャーなどの肩書がその証左だ。

そして、空売りの経験があるマネージャーは少ない。マネージャーも務め人である。

市場が盛り上がっているとき、「相場は崩れます!空売りしましょう!」という意思決定を社内で通し切ることは難しい。

 

完全に効率的な市場は存在しないのであり、その非効率性こそが投資パフォーマンスの必要条件であるのだ。優れた投資家はその非効率性を見出し、本質的価値より低い値段で放置されている投資対象を見つけ出すのだ。

 

3.バリュー投資を行う

投資アプローチは大きく二つに分かれている。ファンダメンタルズアプローチとテクニカルアプローチだ。

 

ホークスはファンダメンタルズアプローチを選ぶ。

彼に言わせればテクニカル分析など運任せと同じだ。チャートを占って未来がわかるわけがない。

 

ファンダメンタルズ分析はさらに二つに分かれる。バリュー投資とグロース投資だ。

バリュー投資は今現在の資産の本質的価値を見出す。グロース投資は将来の成長性を予測しようとする。

 

両者は密接に絡みあっており、どちらも無視することはできないが、ホークスはバリュー投資に重きを置く。なぜなら将来の本質的価値や成長性を予測することは困難であり、不確実性が大きいからだ。

 

4.価格と価値の関係性に目を向ける

ではバリュー投資を行うということは、資産の本質的価値を見出し、価値に対して割安な価格の投資先を見つけることを意味する。

では価格は何によって決まるのか。大きく二つ。①テクニカル要因と②心理の二つだ。

①テクニカル要因は本質的価値とは無関係に、証券の需給によるもの。例えば信用取引を行っていた投資家が追証のために行う投げ売りなどだ。最良の方法とはどんな価格でも売らざるをえない人から買うことだ

 

②心理は本質的価値とは異なり、短期的に価格に大きな影響を与える。

ゆえにほかの投資家の心理=価格を読むこと、ほかの投資家が弱気で安くとも、本質的価値の高いものに投資することが求められる。

 

5.リスクを理解する

リスクとはボラティリティのことではない。リスクとは端的に資金を失う可能性のことである。リスクを評価する客観的な指標などは存在しない。

 

6.リスクを認識する

 リスクと価格とは密接に関係している。リスクの低いものはどんな価格でも買う、リスクが高いものはどんな価格でもかわない。このような態度はリスクの認識として正しくない。

 

この常識と相反する結論をホークスは「リスクのあまのじゃく現象」と呼称する。

誰もが高リスクと考える資産はまったく危険ではない価格水準にまで下落する。これは最もリスクが低い資産になりうるのである。なぜなら価格に楽観的な材料が何一つ織り込まれていないからだ。

そしてリスクが低いと思われている資産は高騰し、真のリスクは高値で顕在化することになる。

 

7.リスクをコントロールする

長期的に投資で成功するためには、同じリスクで高いリターンを上げるより、低いリスクで同じリターンを上げるほうが良い。

利益を出した数よりも、損を出した数とその規模、すなわちリスクコントロールの手腕が投資の成否を決めるのだ。

 

8.サイクルに注意を向ける

ほとんどすべてのものにサイクルが存在する。

原則①ほとんどすべての物事にはサイクルがあることが判明する

原則②利益や損失を生み出す大きな機会は周りの者が原則①を忘れた時に生じる

 

とりわけ信用サイクルは重要だ。

好調な経済→資本提供する金融機関が繁盛して資本基盤を拡大する→融資や投資のリスクが低下したようにみえる→リスク回避志向が消える→金融機関が資金供給拡大を行うが、マーケット競争のために金利引き下げ、与信基準緩和を行う→本来融資に値しない投資先への融資が行われる→資金回収が困難になる→損失を出した貸し手の融資態度が厳しくなる→リスク回避志向が強まり、金利の引き上げや与信基準の厳格化が生じる→利用可能な資本の規模が縮小→企業の資金不足→債務借り換え不可能→デフォルトや倒産、投げ売り→これが悪循環を生む

 

9.振り子を意識する

投資家心理は振り子のように変動する。投資家のリスクとは機会損失リスクと、損をするリスクの二つだ。市場サイクルと同じく、投資家の心理も揺れ動くのだ。

 

10.心理的要因の悪影響をかわす

市場コンセンサスと反対のポジションをとることは投資家に大きな心理的疎外感を感じさせ、コンセンサスに飛び立ちたくなる誘惑が強まる。

 

11.逆張りをする

心理的要因の悪影響を認識して逆張りを行うことだ。それには健全な懐疑主義が必要だ。

楽観主義が行き過ぎたときに、懐疑主義悲観主義をもたらす。そして悲観主義が行き過ぎたときに、懐疑主義が楽観主義をもたらすのだ。

 

繰り返しだが、投資とは居心地の悪さを伴うものだ。買うことが心地いいとき、価格はお買い得ではなくなっているのだ。

 

12.掘り出し物を見つける

掘り出し物とは人々が実態よりも著しく悪い印象を抱いている状況で生じる。

・あまり知られておらず、理解されていない

・一見ファンダメンタルズに問題がある

・議論の的になっていたり、恐れられている

・人気がない

・リターンが低迷している

・買い増しよりも削減の対象になっている

 

13.我慢強くチャンスを待つ

高リターンが期待できるチャンスは常に現れるわけではない。

低リターンの環境で高いリターンを生み出すには、時流に乗って数少ない勝ち組を見つけ続ける必要があり、それは高いスキルと、高いリスクへの耐性、そして幸運が必要である。

低リターンの環境で積極的に動く必要などない。資産のほうがこちらへ向かってくる。すなわち売られるまでじっくり待っていればいいのだ。

 

14.無知を知る

15.今どこにいるのかを感じ取る

予測できる範囲には限りがある。未来余地は不可能だし意味がない。

ただし、市場サイクルや投資家心理の振り子が今現在どの位置にあるのかを見出す努力は行うべきだ。将来の動きが予測できるわけではないが、起こりそうな事態に備える手助けにはなる。

 

 

 

 

16.運の影響力を認識する

「成功」した投資が実力によるものなのか、運によるものなのかはわからない。

往々にして上昇相場では人は時の運に基づくリターンを自らの実力とすり替える。

 

大切なのは資産の本質的価値に確固たる信念を持つこと、そしてそれとサイクルや投資家心理との差を考えることだ。

 

17.ディフェンシブに投資する

アグレッシブな投資は上昇相場では大きなリターンを生むが、その逆が起こると怖い。

ゆえにディフェンシブな投資をお勧めする。

 

18.落とし穴を避ける

投資家が何よりも行うべきは、高いリターンを上げることではなく、いかに落とし穴を避けるか、損失を出さないようにするかだ。

 

ほとんどの投資家はごく間近な過去を未来に投影している。第一に重大な金融事象の多くが長いサイクルの中で起きるため、極端な状況を経験したものが次に同じようなことが生じる前に表舞台から消えていること。第二に、ガルブレイスが指摘したように、金融に関する記憶が持続する期間は極端に短い。第三に、過去の経験を思い出す機会は、「確実な儲け話」の声にかき消される。

 

「確実におこらない」という仮定はかえってそれが起きる可能性を高める。

なぜなら絶対にそれが起こらないと考える人がリスクの高い行動をとって環境を変えてしまうからだ。

 

19.付加価値を生み出す

市場平均を上回るリターンを生み出すことが必要である。ただし、相場が悪い時期に限る。相場がいいときには市場平均並みのリターンでいい。悪いときに市場平均を上回ることが付加価値を生む。

 

20.すべての極意をまとめて実践する

すべて実践する。

 

いやはやすべて実践するとなると、、、

やはり投資は難しいということを再認識させられる。